何のことは無い、日常生活の合間合間にあるちょっとした問題というものは、後から考えてみれば簡単に回避できるような事ばかりなのである。


 僕は、その夜もオフィスでPCに向かっていた。いや、その夜というのは少し嘘が混ざっている。東京湾が望める窓からは、薄明るい光が差し込んでいた。別に窓際まで行って、東京湾を見下ろす気などない。ただ、せっかく海のある場所だったから、海面に反射する光の連想で、朝がきている様子を表現したかっただけだ。


「合わない、件数が合わない。」
 巷で流行っているクールビスという、冷房の温度を28度に設定して暑いオフィスで耐えましょうという全国統一我慢大会の影響なのか、はたまたそこら辺にあるコンピュータの数が原因なのか、額に貯めた汗を右手の人差し指で左右になぞりながら、頭を悩ませる。
 入社7年目という、若手と呼ぶには微妙な年頃になりつつある僕と、何故かそのフロアに残っているマネージャ。いや、ここにも少し嘘が混ざっている。マネージャはフロアに残っているのではなく、深夜になってからオフィスに戻ってきたのだ。そのマネージャが抱えている問題が何かは知らないが、僕はとにかく。自分が抱えている問題に向かう。
 ところで、僕が抱えている問題がいったい何なのか?という、読者にとってはどうでも良いことなのだが、この物語のテーマなので、放っておく訳にもいかない。ここで整理しておこう。要するに「件数が合わない」のである。そして、数分毎に繰り返されるくしゃみ、そして鼻水。それから、足を中心として間接が痛いということである。
 「件数が合わない」と言う件に関しては、多くを触れないことにしよう。結局この問題は、この後すぐに解決されることになる。というか僕が解決した。重要なのは後者の問題である。世間で言うところの風邪の諸症状というやつである。
 風邪の諸症状というやつは馬鹿には出来ない。こいつらは年に数度現れては、同じような事を繰り返していく、にもかかわらず我々人類というやつはこいつらに対しては同じように苦しむことしかできないのだ。確かに、医学も進化しているし、風邪で死んでしまう人は昔に比べれば減っているだろう。詳しい数字は知らないけれど。しかし、こと、僕という人間に関して言うのであれば、毎年毎年、経験しているにも関わらず、戦い方に一向の進歩が見られないのだ。毎年同じように苦しんでしまう。僕という人間はなんて進歩がないのだろうか。同じミスばかりしているような進歩のない人間ということだ。そもそも、風邪との戦い方のセンスが無いのかも知れない。
 随分と話がそれてしまったので、話を元に戻してやる。と言うより、そもそもまだ何も話が始まっていなかったような気もする。


 これは、6月9日の一日の出来事である。


 この日の夜は、飲みに行こうと言うお誘いがあった。下戸な僕だけれど、楽しい仲間と語り合うというは素直に楽しみなことで。が、事と言うものは必ずしも、順調な感じで進んでいくものではなく。ちょっとばかり仕事の進捗状況が遅れ気味だった。僕の仕事はシステムエンジニアというやつで、いろいろな企業にいって、情報システムのご用聞きをして、言いつけられた情報システムをひたすら作るという。まぁ、チープな仕事だ。世間ではキツイ仕事と言われており、きわめて人気のない職種の一つとなっているらしい。僕も、この仕事を人には勧めない。
 ところで、その遅れ気味の仕事というものも、少し残業すれば何とかなるという感じで、少し残業をする事にした。その有様が午前様である。わざわざ、面倒な言い訳をする気はないのだが、ちょっと割り込み作業が多かったのと、まぁちょっとした勘違いも災いして。
 そう、その割り込み作業の一つがその日もあった。ここで言うその日は6月8日になる。ちょっとお客様のところへヒアリングと言うことで、資料を抱えて向かった。ぱっとしない天気ではあるが蒸し暑いことには変わりなく、汗を流しながら、地下鉄の駅からビルまで10分ほどの道のりを歩いた。そこは初めて訪問するお客様で、ちょっと緊張しながら会議室へと招いてもらう。会議室に入りすがら、オフィスにあるPCのメーカーをざーっとチェックする。(これは、そのお客様のところに当社がどれだけ入り込んでいるかを知る、一つのバロメータになる。)
 さて打ち合わせが始まり、ビジネスのお話。話の内容の方は、まぁ、企業秘密というか、対して面白くないので書いても仕方がないというか。…と言う感じで打ち合わせが続き、その途中にふとある違和感に気づく。


「寒い」
 この会議室、きちんと冷房が効いている。今時律儀な会議室で、ここ数年冷房対策という事を意識したことが無かった僕は不意をつかれた。とにかく寒いのである。しかも、ここにたどり着くまでに汗もかいていて、輪をかけて寒さを強める。ここ数年、オフィスが暑くて外に出たくなったことは多いが、オフィスが寒くて外に出たくなったことはほとんど無い。が、本当に久しぶりに体験した。


「暑い」
 翻って、自社のオフィスに戻って来れば我慢大会が始まる。寒い暑いの大騒ぎで、体の方がくしゃみというアラームを上げ始める。まぁ、すぐに収まるだろうと言うのがおおかたの予想。特に気にせず仕事に戻る。


 というわけで、そのまま例の日、6月9日を迎える事になる。意識して迎えたというよりかは、気がつけば日付が変わっていたという感じではあるが。で、そのまま気がつけば、早朝を迎えていて。気がつけば、山手線は走り出している時間という訳だ。
 僕は、抱えていた問題の小さな方を片づけて会社を出る。電車は走り始めているが、面倒なのでタクシーを捕まえる。昔はタクシーを使うことに抵抗が合ったのだけれど、最近、そういうことは感じなくなったなぁ、と言う事を感慨深く思い。しばしの時間をタクシーに揺られる。


「領収書はいいです」
 電車が動いている時間、動き出してしまった時間にも関わらずタクシーを使ってしまったことを理由に代金は自腹で払うことにして、タクシーを降りる。それならば、何故タクシーで帰宅したのか、もっと理由を掘り下げてやると、さっさと家に帰って、さっさと会社にいってさっさと仕事を片づけて、さっさと飲みに行きたかったのである。単純なことである。そのために、タクシーで家に帰った。もっというなら、次はタクシーで出社してやろうかとすら思っていたぐらいである。


 さて、家に着いた後は何も考えずに、すぐに布団に入って眠ることにした。明日は早い、と言うか、早く寝ないと寝る時間が無くなる。


 時計を見ると10時過ぎ。たいへん、遅刻だー。
 などという光景であれば平和だったのだが、そういう訳にもいかず。異様に暑い、だるい。時間を気にするのは二の次でとりあえず、目を開けたままぼんやりと。日の明るさを見るに、かなり昼に近い時間になっている事は容易に予想できた。時計を見ようとは思わなかった。
 しばらくの小休止の後、机の上に転がっていた体温計を取りに起きあがった。ちょっとばかりふらついている。わざわざ体温を測るまでもなく、熱があることはわかっていたのだが、ま、一つのバロメータになるので。体温の測定が完了すると音が鳴るタイプの体温計なので、とにかく脇につっこんでやった。だいたい熱があるかどうかはこの時点で確信出来る。熱があるときは脇にかいている汗の分量が半端ではない。このときも例に漏れず半端ではない、と言うか脇だけでなく、背中とか、もう体中汗でぐっしょりだった。ついでに言えば頭も痛い。関節の痛さに至っては、眠りにつく前から続いていた。
 そんなことを考えながら、ぼんやりとしていると体温計測完了とのアラーム音。ちなみに、その間に考えていたそんな事というのは、暑い、だるい、という事の繰り返しで、事細かに説明しようにも、単にそれだけとしか言いようがないことだ。そんなわけで、測定完了のアラーム音が鳴るまでの時間はいつもより長かったような気がする。ま、熱を出して体温を測るときはいつも感じることだけれど。


 38.3度。


 あ、これダメだな。今日は飲みに行けないな。と、その数字を見たときに確信をした。正直ここまで熱があるとは思っていなかった、37.3度当たりがいい線かなと思っていたのだが。長期戦の予感。
 しかしまぁ、遊ぼうと思っている時にあわせて熱を出すなんて、僕も器用な人間だ。はしゃぎすぎて、遠足の日に熱を出す子供みたいだね。


 この日は、これで全て。本当に、全て。


 後は、病院に行って、「はい、風邪ですね」と言われて、薬を処方して頂き、ずっと横になっていただけ。もちろん、風邪をひいて寝込んでいるのだから、それなりの苦しみとかそういうのも、あった。けれど、それをここで、あーだ、こーだ、と書き立てたところで、「要するに風邪だね」と言われてしまえば、それでお仕舞い。別に面白い話でも何でもない。


 ところで、日常生活の合間合間にあるちょっとしたこの問題。簡単に回避できるようなことだったのだろうか。そもそも、これは問題だったのだろうか。結果として、楽しく仲間と語り合うことができなかったのだから問題なのだろう。


 僕は、少しずれた視点でこの問題に取り組んでみようと思う。過ぎてしまったことは、もう回避することはできない。だから、この問題を真っ正面から遊んでやることにする。
 風邪をひいて寝込んだというだけの事をわざわざ小説化する。まるで、小学生の作文のようなこの物語は、僕の小説を書くという趣味のちょっとした息抜き。