泉麻人著「新・東京23区物語」(新潮文庫)という東京23区を区ごとに紹介した書籍を読んでみたのですが、区に応じて随分と紹介する内容を分量に差がありました。紹介されている分量を多い順に並べてみると(括弧内はページ数)、港(21)、渋谷(21)、中央(19)、世田谷(17)、千代田(15)、新宿(15)、台東(11)、中野(11)、豊島(11)、文京(9)、墨田(9)、杉並(9)、練馬(9)、葛飾(9)、江東(7)、品川(7)、目黒(7)、大田(7)、板橋(7)、荒川(7)、足立(7)、江戸川(7)、北(5)という順になりました。作者の好みという部分も大きいかと思いますが、このページ数が各区の話題の量の多さを示しているといっても、あながち間違いではないのかもしれません。しかし北区の5ページという少なさ、しかも単独最下位、港区・渋谷区との4倍以上のひらきがあるという状況はあまりにも悲しいのではないでしょうか?
 そこで、そんな東京都北区とはいったいという場所なのか、ひょっとしたらおもしろい話題があるのでは無いかということで北区について調べてみました。興味を持たれた方はご覧ください。(注:本格的に調査したものでは無いので不正確な記述があるかもしれません。)


 東京都の北区とは東京23区の最も北側、荒川を挟んで埼玉県と隣接する地域です。北区の主要な町は北側から赤羽・十条・王子になります。ここでは、北側の赤羽から順にふれていきたいと思います。


・赤羽発、鉄道の歴史と未来
・赤羽は埼玉じゃない!
・赤羽・十条軍用地の跡地利用
・王子駒込間の公園と滝
・西ヶ原のちょっとした文学
・東京都北区イメージアップ大作戦「KISS」
・紹介した場所の地図



赤羽発、鉄道の歴史と未来


 赤羽という地名はJRの駅名にもなっており、JR赤羽駅は宇都宮線・高崎線・埼京線・京浜東北線が通っています。赤羽駅は、埼玉方面から東京の中心部へ向かう人が上野・東京方面と池袋・新宿方面の乗り換えを行うためのターミナル駅です。しかし、赤羽駅は他のターミナル駅と比べるとどうも陰が薄い印象があります。というのも、山手線のターミナル駅の場合は、ほとんどが私鉄とJRの乗り換え駅となっているために乗り換えの人は改札から出ることになりますが、赤羽の場合はJR線同士なので乗り換えの人が改札から出ることがない。つまりターミナル駅ではあるものの、乗り換えの利用客が街にあふれないということになる訳です。新宿や池袋などでは、駅付近の混雑を解消するために、私鉄と地下鉄の相互乗り入れを進めているのとは対照的なターミナル駅だと言えます。
 と言うように一般的には、赤羽駅の周りに何があるのかは知らないけれど、とりあえず乗り換え駅というイメージが強いのではないでしょうか。そこで、赤羽駅の乗り換え駅としての歴史を調べてみたところ、その歴史は古く、明治18年から乗り換え駅としての歴史を刻んでいたようです。明治5年に新橋−横浜間(現在の東海道線)、明治17年に上野−高崎間(現在の高崎線)の鉄道が開通しましたが、当時すでに市街地だった新橋−上野間に鉄道を敷設する用地を確保できなかったために、明治18年、新宿・渋谷を経由する赤羽−品川間(現在の山手線)に鉄道が敷設されました。赤羽駅はこの時点から乗り換え駅だったことになり、その歴史は新宿・渋谷・池袋よりも長いものです。
 さて、赤羽駅に関する鉄道の歴史を振り返ったところで、未来の鉄道についてもふれてみたいと思います。現在、赤羽をターミナルとする鉄道の構想が2つあり、それはエイトライナー構想とメトロセブン構想です。どうなんだろうそれは、というネーミングなのですが、エイトライナーのエイトは環八を、メトロセブンのセブンは環七を指しているようです。エイトライナーの方は、赤羽から、志村、練馬、平和台、井荻、荻窪、高井戸、八幡山、上野毛、田園調布、蒲田と経由して羽田空港を結ぶ鉄道です。この鉄道は、環八沿線地域の移動を山手線を経由せずにできるようにして環八の渋滞緩和をはかる目的と、世田谷区あたりから羽田空港へのアクセスを良くしようという意図があるようです。メトロセブンの方は、赤羽から亀有を経由して葛西臨海公園を結ぶ鉄道です。どちらもまだ構想の段階で、路面電車にするのか地下鉄にするのか、そもそも本当に作るのかも含めて全く決まっていない段階です。もしもこれらの鉄道ができたとすると、どちらも(現段階では)赤羽をターミナルとした構想なので、この鉄道が作る人の流れによって赤羽の街も変わるかもしれません。



赤羽は埼玉じゃない!


 ことあるごとに埼玉県に間違われる赤羽ですが、言うまでもなく赤羽は東京都北区です。私には、どうして赤羽を埼玉だと思っている人が多いのか理由はよくわからないのですが、例えば東京の逆側、南端の蒲田に比べると確かに東京という印象は薄いような気はします。そこで赤羽の歴史を調べてみたのですが、赤羽が埼玉県であったというような歴史も存在しないようです。
 赤羽は江戸時代には武蔵の国の豊島郡に属していました。その後、明治元年に東京府が設置されますが、この時点では赤羽は東京府に属していなかったと考えられます。なぜなら、明治4年の廃藩置県で東京府に豊島郡などが加わって新しい東京府がスタートしたとされているからです。明治元年から4年の間、赤羽が東京府で無かったとするならば、どこに属していたのか。おそらくこの4年間は大宮県や浦和県に属していたのでは無いかと考えられます。ということから、赤羽は埼玉じゃないけれど、大宮や浦和と混同されるのは致し方ないのかもしれません(あくまでも、明治4年より前に生きていた人にとっての話ですが・・・)。



赤羽・十条軍用地の跡地利用


 東京での跡地利用というと、池袋の東京拘置所跡地にはサンシャインシティ、新宿の淀橋浄水場跡地には都庁などの新宿副都心、浜松町の国鉄貨物駅跡地には汐留シオサイト、品川の国鉄貨物駅跡地には品川インターシティをはじめとする超高層ビル群と話題性に暇がありません。そして、赤羽や十条の近代史は跡地利用の歴史といっても良いほど、跡地の再開発が盛んな地域なのです。
 ところで、戦前の赤羽・十条を調べてみると多数の日本軍の設備がみられます。赤羽や十条に軍施設の歴史は、明治5年に赤羽火薬庫の建設に始まり、明治20年に有楽町から工兵隊が移転、明治24年には被服廠(被服の保管と出納を行う機関)の設置と増加の一途をたどり、戦前には北区の面積の十分の一が日本軍の施設となっていたようです。赤羽・十条に軍施設が設置された理由は荒川が近く架橋訓練の演習が行いやすかったということですが、それ以外にも周辺に娯楽施設が無く訓練に集中できるということもあったようです。
 戦後になるとそれらの軍施設は解放され跡地の利用が行われていきます。数も多いので主要なものを一気に紹介すると、近衛工兵隊架橋演習場と工兵第一大隊架橋場は赤羽ゴルフクラブや旧岩淵水門公園に、近衛工兵兵営と工兵第一大隊は都営桐ヶ丘団地に、陸軍被服本廠は公団赤羽台団地に、陸軍兵器庫は赤羽自然観察公園に、火薬製造所豊島分工場は東京成徳大などの文教施設に利用されています。団地や公園ばかりで、この章の書き出し部分に比べるといまいち華やかさに欠けている感じです。
 ちょっと寂しいのでこれらの跡地について調べてみたのですが、旧岩淵水門公園はドラマのロケ地としてたびたび登場する場所で、「僕と彼女と彼女の生きる道」や「仮面ライダー」などで使用されているようです。ちなみに「3年B組金八先生」のロケ地も同じく荒川沿いなのですがこちらは足立区のようです。
 さらに調査を進めようと思い、グーグルで他の跡地について検索をかけていると、赤羽自然観察公園に日本一大きな観覧車ができるという情報がヒットしました。あれっ、と思って内容を見てみると赤羽台西小学校のホームページ作成の授業の教材サンプルでした。生徒が作成したホームページに「将来、ここに日本一大きな観覧車ができるとSくんが言っていました。」と記述しているのに対して、教師が「確認した情報ではありませんね」と添削を行う指導方法のサンプルが示されていました。教材のサンプルでしかないのですが、赤羽の小学生の夢としてはあってもおかしくないかわいい夢だと思います。そして十条にはまだ陸上自衛隊十条駐屯地(元は十条兵器製造所)がありますが、もしもこの駐屯地が解放されることになれば、その時、十条の小学生はどんな夢を見るのでしょうか。



王子駒込間の公園と滝


 駒込駅から本郷通りを北へ進むと、2キロほどの距離の間に、旧古河庭園、滝野川公園、飛鳥山公園、名主の滝公園と公園が並んでいます。
 旧古河庭園は、大正6年に古河虎之助が経営した庭園で、ここは洋風庭園と和風庭園が併存していることに特徴があります。どちらの庭園もなかなか立派なものなのですが、世間にあるここの紹介は洋風庭園の方がクローズアップされているようです。しかし、この庭園の中心にある展望台から360度見回した時に、洋風と和風の庭園が一望できる景色がこの庭園の一番の面白さではないかと思います。
 飛鳥山公園は、享保5年(江戸時代)に八代将軍徳川吉宗が桜を270本植えた時から現在まで桜の名所として知られる公園で、現在は約650本の桜が植えられています。ところでこの飛鳥山の名前なのですが、紀州(現在の和歌山県)の飛鳥明神の分霊を祀ったことに由来しています。日本史に詳しい人ならばここでピンと来たかもしれませんが、徳川吉宗は元紀州藩主なのです。さらに飛鳥山公園の傍に王子神社という神社がありますが、この神社も紀州の若一王子神社に由来します。このように飛鳥山公園の周辺は紀州にちなんだ場所で、吉宗もこの一帯がお気に入りの場所だったそうです。ところでこの徳川吉宗、和歌山ではかなりの人気者で、和歌山城の前には徳川吉宗の銅像が建っていますし、毎年「吉宗まつり」も開催されています。また、1995年にNHKで放送された大河ドラマ「八代将軍 吉宗」も和歌山ではかなりの高視聴率だったそうです。ちなみに、紀州の若一王子神社、飛鳥神社とも2004年に世界文化遺産に登録された熊野古道の近くに位置しています。
 名主の滝公園は、江戸時代に王子村の名主が開いたのがはじまりで、公園内には大小4つの滝があります。この一帯で滝のある公園としては、この公園が最も有名なのですが、旧古河庭園にも、滝野川公園にも、飛鳥山公園にも滝があります。地図を開いてこの近辺の地形を見てみると、京浜東北線が走っている辺りを境に西側が台地、東側が低地となっていることがわかります。この辺りは武蔵野台地の東端に位置していて、かつては「王子七滝」と呼ばれる七つの滝がありました。その中で現存する唯一の滝がこの名主の滝です。旧古河庭園の滝も庭師によって作られた人工的な滝ですし、滝野川公園と飛鳥山公園の滝はコンクリートで作られた現代的な滝で、王子七滝に数えられる滝ではありません。けれど、そんな景色の中に、多くの滝の流れていた面影を追う、街と人の姿が見えるような気がします。



西ヶ原のちょっとした文学


 王子駅を降りて南、飛鳥山公園を過ぎると「一里塚」があります。この一里塚は、江戸幕府が日本橋から岩槻街道の2里(約8キロメートル)の距離を示すために作ったものです。一里塚はこれ以外にも多数作られたようですが、現存している一里塚は東京都内にもあまり無く、貴重な文化財なのだそうです。
 そしてその一里塚の南側には「ゲーテの小径」と名付けられた道があります。ゲーテの小径という看板に連れられて歩いていくと突然、白壁の洋館(ドイツ風?)が現れます。これが「東京ゲーテ記念館」です。この記念館には、故粉川忠氏によって集められたゲーテに関する資料が15万点以上収蔵されており、その量は世界でもトップクラスなのだそうです。ゲーテの研究をする人などは希望すればその資料を閲覧することができ、また年に2回、企画展も開催されているようです。
 一里塚、東京ゲーテ記念館と紹介して来ましたが、それらがある町が「西ヶ原」です。この西ヶ原という町は小説家の内田康夫氏の出身地なのですが、さらに内田康夫氏の代表シリーズ作品、浅見光彦ミステリーシリーズの探偵「浅見光彦」は西ヶ原3丁目在住という設定になっています。シリーズの一作目「後鳥羽伝説殺人事件」には、浅見光彦が広島から出てきた刑事を上中里駅まで送っていく場面が描かれています。また2作目「平家伝説殺人事件」以降でも浅見光彦と西ヶ原やその周辺の街並みが描かれ続けています。浅見光彦シリーズといえば、テレビのサスペンスものでお馴染みなのですが、調べてみなければ気づかないものなのだなと、街のことを知る楽しみを改めてかみしめてみました。



東京都北区イメージアップ大作戦「KISS」


 本文の冒頭でも「新・東京23区物語」で、北区が5ページしか取り上げられていなかったことを書きました。そして、北区役所もやはり東京23区の中で北区は話題性に乏しいということを自覚しているようです。そこで北区役所広報課は、「KISS」(= Kita-ku Image Strategy & Scheme)と称して、北区の知名度とイメージを高めるための情報発信活動を行っています。
 その活動内容は北区役所のホームページから閲覧することができるのですが、結構これが面白い内容です。例えば、北区にゆかりのある著名人と一緒に北区をPRする「北区アンバサダー(大使)」制度。この制度では、内田康夫氏、つかこうへい氏、ドナルド・キーン氏、羽田健太郎氏がアンバサダーとなり北区をPRする活動を行っています。そして先日、平成17年3月6日には、その活動の一つ「北区内田康夫ミステリー文学賞」の第三回の授賞式が開催されたようです。大賞の作品は実業之日本社発行の「J-novel」に掲載されるということなので、発売されたら本屋に探しに行こうと思います。
 アンバサダー制度以外には、地域毎に「Enjoy 子育て in 浮間」「アカバネーゼを探せ!」「お祭り探検・王子」「魅力発見!滝野川」と題したイメージアップ活動が紹介されています。一通り読んでみて、特に面白かったのが「アカバネーゼを探せ!」。アカバネーゼという言葉は初耳だったのですが、白金(港区)に住むシロガネーゼに対して、赤羽(北区)に住むアカバネーゼという命名なのだそうです。この企画の目的は「おしゃれなアカバネーゼを見つけて赤羽の魅力を語ってもらうこと」なのですが・・・、続きは北区役所のホームページをご覧下さい。
 北区役所も積極的に活動している北区のPR。この東京都北区物語を読んできた皆さんには東京都北区がどのような街に映ったのでしょうか。私自身は、この文章を書き上げる過程で、街を知ることの楽しさを再発見できたように思えます。東京都北区物語はここで一旦おしまいとさせて頂きますが、東京都北区へ出かけて、みなさまにお伝えしたい新しい発見をすることができたら、次の物語をお届けすることになるのではないかと考えています。


 上手くまとめられていない部分などお見苦しい部分も多数あったかと思いますが、最後まで目を通して下さったみなさまに、心から感謝させて頂きます。


2005年3月13日
三上 威


紹介した場所の地図


 下の地図では、東京都北区物語で紹介した場所を示しています。関心を持った方は、是非訪れてみて下さい。