ずいぶんと曇りがかった空の色だった、雨は今にも降り出しそうだった。そんな空の下、ひとりぼっちで歩いている男がいた。彼は傘を持っていなかった。空の色を気にしながら家へと急いで返る。そんな様子で、人通りの少ない住宅街の中を小走りに通り過ぎていこうとしていた。
「ちょっと寒いな」
 そんな台詞を吐いて、コートの襟をたぐり寄せる。彼の言葉の意味は、単純に周りの温度が低く身体的に寒く感じられるという意味だった。しかし、通りから見える家々の明かりと、その中から感じられる暖かさは、彼にそれ以外の意味の寒さを感じさせていた。
「ずいぶん寒いな」
 そんな言葉を続けて、さらにコートの襟を握りしめる。そんな態度に、いろんな寒さの意味が現れていた。彼の家へはそんなに遠くなかったのだが、もっと遠くに感じられた。
 その通りを少し歩いていくうちに、ゴミ捨て場の前にさしかかる。彼がその前を通り過ぎようとする頃に、耐えきれなくなった空が、雨を降らせてきた。男はコートの襟を引き寄せるようにして、もう一段階速い小走りに切り替えようとする。そのとき彼の後ろから物音が聞こえてくる、ゴミ捨て場の方だ。ゴミ捨て場には、乱雑にゴミが積み上げられている。粗大ゴミの収集日なのだ。雨に濡れるのが嫌だったはずの彼は、妙にその物音が気になった。ゴミ捨て場の中で何かが動いている。プラスチックか何かが詰められたビニール袋の下でもぞもぞと何かが動いている。コートの襟を握る手を離しそのビニール袋を取り払ってみた。するとそこには一匹の子豚が震えていた。町中ではあまり豚を見かけることはないので、はじめのうちは、彼はそこにいる生き物が豚だとはわからなかった。彼は、ビニールを取り除くと犬か猫が出てくるものと思いこんでいたのだ。出てきたものが豚だからといって見捨てていく訳にもいかず、彼はその子豚を抱き上げて家に連れ帰ることにした。
 そこから彼の家はすぐだった。コートの襟を握る代わりに胸に子豚を抱いた彼は、少し水分を含んだコートのポケットからアパートの鍵を取り出す。まだ彼の体は寒いはずに違いなかったが、これまでよりは寒く感じていなかった。子豚を抱えるのとは逆の手で鍵をもてあそびながら、アパートの階段を上っていった。部屋の前に立ち鍵を開けると、すぐに彼はストーブの電源に手をかける。彼自身もとても寒かったのだが、それ以上に手の中の子豚があまりにも寒そうだったのだ。彼は子豚を抱えたまましばらくストーブの前でじっとしていた。
「この子豚どうしようかなぁ、このアパートではペットは飼えないしなぁ。とりあえず、今日一日ぐらいは勘弁してもらおう。それからはまた考えればいいか」
 彼はあまり深く考える性格ではなかったので、そういったことは適当な結論に導いて、晩飯の準備に取りかかることにした。晩飯の準備といっても、肩から下げていた鞄からコンビニの袋を取り出し、その中にあるカップラーメンにお湯を注ぐだけのことだ。読みかけの本やノートなどが散らばった机の上に、買ってきたカップラーメンをおく、そしてコンロに片手鍋をおいてお湯を沸かす。お湯が沸くまでのしばらくの時間で、子豚に与える餌のことを考える。
「豚って雑食だったから、何でも食うよなぁ。でもラーメンをやるのはいいのかなぁ、冷蔵庫に何かあるかな」
 そんな独り言を言って、彼は冷蔵庫を開ける。冷蔵庫にはほとんど何も入っていなかったが、冷凍食品の類を適当にかき集めた。それらを電子レンジで温めるうちに、お湯が沸いたのでカップラーメンに注いでやる。カップラーメンと冷凍食品、ずいぶんと適当な食事だった。彼と子豚は、時間がたつのを待つだけだった。彼の食事よりも、子豚の食事の方が少し早くできあがった。それを見ながら彼は、カップラーメンよりも健康的というか、まだ幾分か人間的な食事だと思いながらも、それを子豚に与えた。彼はカップラーメンをすすった。
 彼は、食事を終えるとすぐに眠ることにした。彼の鞄の中には、友人から借りたアダルトビデオが入っていたのだが、子豚と一緒に見るのは何か引っかかるものを感じたのでもう寝ることにした。子豚が寒そうだったので、布団の中に子豚も入れてやることにした。
 いつもなら割とすぐに眠りにつける彼だったが、子豚がいることが気になるのか、なかなか眠りにつくことができなかった。彼は一人に慣れきっていた。しかしそんな彼も、いつしか深い眠りについていた。外から聞こえる雨音は、いつしか静かな音になっていた。


 雨上がりの朝、空には虹がかかっている。朝の日差しの差し込むアパートの一室で彼は目を覚ました。いつも通りの朝だった。少し寝ぼけたままの空気を漂わせていた彼だったが、ふと昨日拾った子豚のことを思い出した。部屋を見回す限り子豚の姿は見えない。別に子豚がいないからといって困ることは何もないのだが、彼は子豚を探し始めた。なぜか必死に探し始めた。
 彼がそんな風に一生懸命探していると、彼の目の前に一人の女性が現れた。彼は動きは止まり、その女性の姿を見入った。少し足が太いかなと感じもしたが、それはとても彼好みの女性だった。が、しかし好みの女性だからといって、歓迎する訳にもいかず。彼は問いつめた。
「お前、誰だよ」
 そんな風に問いつめると彼女は、自分が昨日助けられた子豚であると主張した。彼はそんな訳の分からない主張を受けいることができるわけがなかったが、とりあえず好みだったので話を聞いてやることにした。それに足がやや太いあたりが、元は豚であったという主張に妙な真実みを持たせた。
 その後、彼女は自分の身の上話をいろいろと話し始めた。はじめは彼も適当に話を聞き流していたが、彼女が彼に好意を持っている様子を知り、優しく彼女の話に耳を傾けるようになった。そして彼はしばらく彼女とともに過ごすことになった。彼は、友人に借りてきたビデオを見るタイミングを失ったことと、足が少し太いことが気になったが、「こんなことがあってもいいな」と深くは考え込まなかった。