「もう六時回ったよね」
「うん」
「電話してみたら?」
「そうしようか、」


 渋谷駅ハチ公口、週末の夕方。いつものように人は多い。こんな人ごみの中に、哲也は呼び出されているのだ。鞄には現金を一千万円入れてある。鞄を守るようにしながら、周囲を伺う。こんな場所で、どうやって現金の受け渡しをしようというのだ。そもそも人が多すぎて、全ての人に対して警戒し続けていると精神的にもたなくなる。それでも集中力を持続しなければならない。自分自身が疲れているということをこんなにも実感したのは生まれて初めてかもしれない。


「ハチ公前、午後六時、一千万円持って、一人で来い」
 それが犯人の要求だった。


 テレビドラマで見た身代金の受け渡し場所は、人気の無い場所や時間帯ばかりだったと思う。ここに来るまでは、息子は無事なのか、どうやって一千万円をかき集めるか、そういったことに必死で。身代金の引渡しをこんな人ごみの中ですることになることなんて、全く頭が回らなかった。
 自分とすれ違う人、デパートのショーウィンドウの前でケータイをいじっている人、ケータイで話をしながら手を振っている人、ポケットからタバコを取り出し喫煙コーナーに向かう人、大きな荷物を抱えてきょろきょろしている人。ここにはたくさんの人がいる。いつもなら気にもしない光景だが、この中に犯人がいるのかも知れない。何か犯人の気に触るようなことをすると、息子の命が危なくなるのかも知れない。実際、どうすればいいのか、何もわからない。ただ、ただ、周りに注意を張り巡らさなければならない。


 女性が話しかけてくる。
「少しお時間よろしいですか。婚活に関するアンケートをしているのですが、独身の方ですか?」
「すいません、既婚者なので・・・」
 そう言いながら、アンケートの女性から逃げる。クリップボードを持って、めぼしい人を捕まえようとする光景。よく見かける光景で、声をかけられることも良くある。今回もいつものようにスルーしたつもりだが、ものすごく胸が高鳴っている。人から話しかけられることが、とても怖い。
 注意を張り巡らしながら、気持ちの悪いドキドキ感がおさまるのを待つ。
「カラオケどうッスか?、待ち合わせですよね?」
 カラオケボックスのビラをちらちらと見せつけながら、若い茶髪の男が声を掛けてくる。「待ち合わせ?」そう言われれば、そうなのかもしれないが、いわゆる「待ち合わせ」では決して無い。
「連れの方が来たら、一緒にカラオケってありですよ。結構、六時くらいって飲み屋とか混んじゃってるじゃないですか。先に二、三時間歌っちゃって、おなか減らしてからの一杯がさらに旨いみたいなノリで・・・」
 いらいらする。この緊張感の中に、完全オフモードで緊張感ゼロの感じ。
「待ち合わせとかじゃ、無いから」
 そう言って逃げようとするが、茶髪の男もなかなかしぶとい。
「またまたー、さっきからずっと人探しているじゃないですか。カラオケ有りかなって感じだったら、一緒に探しちゃいますよ」
「今日は、カラオケとか行く感じじゃないから」
 絶対に無い。カラオケなんて行く感じでは、絶対に無い。少し強い口調で言ってしまったのが効いたのか、後ろに下がりながら茶髪は軽い会釈をして去っていった。
 しかし、そんなに人を探している感じに見えるのだろうか。今日は、いつもと同じ様子で居られる状態ではない、それは確かだ。こんな雑踏の中でも、ドクドクと自分の鼓動が聞こえてくる。周りの人全てに注意を払ってきょろきょろしているのかも知れない。それが、傍目からは人を探しているように見えるのだろうか。


「ナンパするならきょろきょろしている女を狙え」
 昔、学生時代の友人がそんなことを言っていた。きょろきょろしている人は、周りに興味があって、時間もある人だから、声を掛けたら付いてくる可能性が高いというのだ。今の自分の状態はそんな感じだったのかもしれない。もし自分が美人の女性だったら、今頃はナンパされまくって大変な状態になってしまっているのかもしれない。そんなことを考えると、自分が男で本当に良かったと思う。


 こんな時に、いったい何を考えているのだろう。緊張感が無い茶髪の男に影響され、訳がわからなくなってきてしまっている。
 今、自分は身代金一千万円を持って、犯人からの連絡を待っているのだ。冷静になって、また周りに注意を張り巡らさなければならない。


「階段の横って、どっち側の?」
 すぐ後ろを、ケータイで話す大きな声が通り過ぎる。急な人の気配と大きな声にびっくりする。確かに、この雑踏の中では大きな声で話をしないと聞こえにくい。そして、出会うためには場所を正確に伝える必要がある。階段の横だと右左二箇所あってどちら側なのかはわかりにくい。
 しかし、犯人はどうやって一千万円の受け渡しをしようとしているのだろうか。そもそも、犯人はこの自分を見つけることができるのだろうか。犯人は自分の風貌を知っている人物なのだろうか。ケータイに連絡がかかってくるのだろうか、それとも急に犯人がやってきて手に持っている現金を取り上げられてしまうのだろうか、いつどこで息子を返してくれるのだろうか。まだ、無事なのだろうか。
 自分はいったいどこまで不安になるのだろうか。いつまでこの緊張感を張り詰め続けなければならないのだろうか。


 犯人は天才なのかもしれない。現金の受け渡しをどのような方法で行うのかは想像もできない。しかし、週末のハチ公前に午後六時。こんな人ごみの中に一千万の現金を持たせた上、周りに緊張感を張り巡らせさせておく。息子の身を案じなければならないが、自分の緊張感を保つためだけでも精神的にはほぼ限界の状態。相手をこんな状態に追い込んでしまえば、犯人側は有利にことを進めることができることは、ほぼ間違い無いと思うのだ。人気の無い場所や時間であれば、現金の受け渡し前にここまで自分を追い込むことなどできないはずだ。
 実際に自分がこのハチ公前に来る前は、こんな状況になるということは想像すらできなかった。この犯人は、相当頭の働く人間なのだろう。それを見越して、ハチ公前を指定してきたのだ。


 胸元でケータイのバイブレーションが鳴る。いつものことのはずだが、こんな時はバイブレーションの鳴動にすら心臓が止まりそうになる。周りと鞄の現金を気にしながらケータイを取り出す。ディスプレイには、美希と、妻の名が表示されている。
 犯人からの連絡が自宅宛にあったのだろうか。ケータイを耳に当てる。


「はい」
 周りを気にしながら話を始める。
「あ、あなた」
「うん。それで、犯人はどういう指示をして来ているんだ?」
 犯人が、すぐそばにいるのかも知れない。周りに緊張を張り巡らせながら、話を進めていく。
「もういいの」
「え?」
 一体、何が「もういい」のだ。諦めると言うのか、息子が無事じゃないのか、一体、何が「もういい」のだ。
「これ全部、この子のいたずらだってことがわかったから、もういいの」


 意味がわからない、意味がわからなかった。言葉の意味を理解するのに時間がかかった。何も難しい日本語を言われたわけではない。誘拐騒ぎは息子自身のいたずらだったから、何も考えず家に帰ればよいということだ。そして、家に帰ったら、息子を叱る必要があるということだ。
 そう、言われたとおりのこと。何も難しいことではない。


 言葉の意味を理解して、極度の緊張から解き放たれた。周りにいる人達が、注意を払う対象から、空気のようなものに変わっていく。自分の目に映っていたハチ公前の景色には、グレーフィルターがかかっていたが、それがとれて鮮やかな色彩のある景色に変わっていく。そんな中で、極度の緊張からの開放にへなへなと体を落としていってしまった。


 こんな今日の待ち合わせは、寿命を縮めるには十分な、本当に危険な待ち合わせだった。