1. ノートの端


 春の日の午後、ぼんやりとした顔で窓の外を見る。窓の外には、体育の授業でグランドのトラックを走る生徒たちの姿が見える。ぼんやりとしたまま少女は、教室の前の黒板に目を移す。取り立てて面白いこととか、エキサイティングな事柄が描かれている訳ではない。正直なところ、退屈な授業が流れているだけ。
 とん、とんっとシャープペンシルの先をノートの上で落とす。そのままペンの先を、ノートの端っこの方に移動させる。丸い円と棒を何本か描く。胴体が直線で描かれた、とても単純な人の姿になる。少女は、ノートの端っこでちょっとした物語を始めようと言う気分になってきた。


 一番最初に描いた単純な人は、この物語のヒロインだ。ヒロインは、ノートの端っこから、もっともっと端っこに向かって走っていく。
 ヒロインは振り返る。振り返った先に現れたのは、悪魔の姿をした人物だ。この人物は、ヒロインと区別がつくように頭の上に角をつけておく。その悪魔の姿をした人物は、ヒロインを追いかける。ヒロインは、もっともっとノートの端っこに追いやられてしまう。
 そこで登場するのが、ヒーローだ。ヒーローの姿は、ヒロインよりも少し大きく描くことで区別をつけよう。悪魔の姿をした人物を追いかける。そして、手を伸ばして捕まえると、何発かのパンチを食らわせて、悪魔の姿をした人物をやっつける。
 その後、ヒーローはヒロインの手を取り、ハッピーエンド。


 というストーリーのぱらぱら漫画。教科書とノートの間で、視線を往復させながら、ちょっとした隙を見てぱらぱら漫画を再生させる。なかなかの出来映えだと満足しつつも、自作漫画の感想を漏らす。
「なんだかぱっとしないヒーローね。ぱらぱら漫画では仕方がないか」
 少女がコメントしたのは、ヒーローの活躍についてではない、ヒーローの姿についてである。大福餅のような顔に、棒きれのような胴体・手足。確かに、なかなか格好の悪いヒーローの姿だと言える。
「大福餅か。また、おなか減ってきたな」


 春の日の午後、先ほど昼食を食べたばかりにも関わらず、食いしん坊な事を考えてしまっている。そんな少女の気持ちは、全く授業の方を向いておらず、ノートの端の物語ばかりに向いていた。




2.海に佇んで


 海の見える草原にいた。否、正確に言えば、海は見えなかった。既に夜を迎えていてそこに見えるのは星空だった。使い古された表現を使えば、手を伸ばせば届きそうな星空だった。
 ずっと遠くを見ていた。何も語らず、前を見ている少女。真っ暗闇で何も見えないはずのその海に静かに視線を傾けていた。少女には声が聞こえていた。その草原には誰もいなかったが、その草原に他の誰かが居たとしても、きっと誰もその声を聞くことは出来なかっただろう。その声は遠くの海を走る船の汽笛のような音、そんな風だった。
 何日もの夜を、その草原に立って過ごしていった。少女は毎夜毎夜、その声を聞いていたが、はじめの頃はその意味が全くわからなかった。子供が言葉を覚えるように、その声に対して、少しずつ愛着に似たものを覚えていく。少女にはその声が自分を呼んでいるような気がした。けれど少女は、それが勘違いで無いことを確かめるかのように、毎夜毎夜その草原に通い続けた。


 遠くの景色を見ている、水平線という名前の景色だ。嬉しい、悲しいといったような感情は何もなく、ただ遠くの景色を見ている。誰に連れて行かれたのだろうか。少女の見ている景色は水平線に変わりはなかった。少女の周りには誰もいなかった、それも変わりはなかった。ただ一つ変わっていることといえば、少女のいる場所が草原にしては随分と殺風景な場所に変わっていることだった。草の一本も生えていない、風にゆれてなびく草木の代わりに、波がなびいていた。小さな波が、少女の足元で砕けていた。白いスカートの裾に、水しぶきも跳ねた。
 誰かに呼び止められるようにして少女が振り返る。少女の視界の先にあるもの、それは少女がいたはずの草原だった。その草原の景色は、そろそろ水平線が覆いかぶさり、少女の視界から外れようとしていた。
 360度どちらを見渡しても、見えるものは海ばかり。ありふれた光景、もしもここが船の甲板の上であれば。水平線しか見えない海の真ん中で、海の上に一人佇む少女は、ありふれた光景ではなかった。そして、その光景を見るものは誰一人としていなかった。
 どちらを見ても同じ景色、少女の周りを取り囲む景色は、大海原、ただそれのみだった。そのように言えば、単調に聞こえる景色だが、実際に見てみるとその景色は単調なものではない。海はじっとしておらず、その姿を様々な形に変え続けていた。時に高く、時に広く、時に静かに。少女が海に佇む少しの時間にも、海の姿は変わり続けていた。
 依然として、少女は海の上に一人佇んでいた。もちろんその光景を見るものは誰一人としていない。そう、その光景を見るものは一人ではなく、一匹と表現すべきだったから。否、一匹という表現も正しくなく、一杯と表現するのが正しいのだろうか。そう、海原にたたずむ少女を見ていたのはイカであった。
 思い切り深呼吸をして、その繰り返し。すーっ、すーっ、すーっ、という擬態語で表現するのがしっくりとくる。通行人役の役者のような表情に見える。それは、テレビドラマで主人公のヒロインとヒーローが愛を語り合う、その傍を、わき目も振らずに通り過ぎていく、そんな通行人役の役者のような表情に見える。そして、少女もその通行人に何の関心も示さずに、ただ佇んでいた。


 それからその次の夜も、やはり少女はその声を聞くために、その草原にやってくる。そして気がつけば、海の上に居る。昨日と同じこと。それが当たり前のような表情をして海の上に居る。少女は髪をかき上げた、馴れた態度に似合わず小さな手だった。ままごとのお椀やお菓子の箱を持っているのが似合うような、そんな小さな手だった。
 少女は声をかけた。
「何処にいるの?」
 その当たりにいるような気がした。その声は、その当たりから聞こえてきているような気がしていた。けれど、少女の声に答えるものは誰もいなかった。
 そこには、すーっ、と言う擬態語で表現される光景があっただけだった。けれど確かに、少女に気がついていた。立ち止まるようにして、少女の傍に現れたのだ。それはやはり、イカだった。


 少女とイカは、二つ、三つと言葉を交わした後、「またね」という挨拶を交わして、互いの帰るべき場所に帰っていった。
 周りから見ればそんな風に表現するのがふさわしいと言えるのかも知れない。何事もなかったかのように、少女とイカはそこから離れていった。




3.黒い波


 同じことを繰り返す。退屈な日曜日にいつも訪れる場所、という表現が少女自身にはしっくりと来る。相変わらず、小さな波が、少女の足元で砕けていた。
 けれど、知っているのだろうか。こんな夜中に少女が一人でふらふらとしていてはいけないこと。ましてや、こんな大海原の真ん中で。たとえ小さな波だとしても、繰り返し跳んでくる水しぶきは、だんだんとスカートの裾を水浸しにしていく。ひょっとしたら、風邪を引くかもしれない。
 それがとても心配だと。いろんなことがとても心配だと。


 心配していたのは、少女の傍に現れたイカ。そして、そのような心配をかけていることを申し訳なく思い、つらいと感じている少女。そんな風に少女は思っていた。そう、スカートの裾を水浸しにしていく波が、透明だったその時までは。


 黒い波。
 スカートの裾は、モノクロのグラデーション模様に染められていった。


 落ちる音。
 少女が佇んでいた、そこにはもう誰も居ない。


 苦しい。
 呼吸ができない。それだけじゃない。
 なんだか、苦しい。
 どうして、苦しい。


 誰か、答えて。


 言葉ではない。そんな響きが、大海原の真ん中で、静かに響いた。


「あれ?、どこかで見たヒーロー」
 それが、少女のつぶやきだった。少女の目の前に現れたのは、どこかで見たヒーローだった。大福餅のような顔に、棒きれのような胴体・手足。不格好なヒーローの姿だった。
 そんな不格好なヒーローに、心の中で叫び声を上げた。「助けてください」と。




4.いちご大福


 少女を抱き上げて、大海原に突如現れた。イカには、そのように見えた。不格好なヒーローは、イカに面と向かい宣戦布告の意志を示した。


 抱き上げられた少女は、なんだかよくわからなかった突然の苦しさから解放された。そして、今そこがどのような状況になっているかも、なんだかよくわからないままになっている。ただ、わかっているのは、どこかで見た不格好なヒーローが少女を助けてくれたと言うことだけ。
「おなか減ってきたな」
 少女は、何の緊張感も無く、そのような言葉をつぶやいた。
 不格好なヒーローは、その言葉に応じた。ヒーローは、片手を自分の頭にやると、その頭の一部分を引きちぎり、それを少女に差し出した。
 何の違和感もなく、少女は差し出された頭の一部を口にした。
「これは、いちご大福ね」
 差し出された頭の一部を見てみると、いちごが丸ごとはいっていた。口元にはいちごの味が広がる。そうか、食べたかったのはいちご大福だったのか。その時少女は、自分が食べたかったものが何かをはっきりと認識した。思わず笑みもこぼれた。


「随分と気持ちがよさそうね。いい夢が見られましたか?」
 少女を教室に呼び戻そうという声が聞こえる。はっとして、姿勢を正す少女に対して、もう一度声がかかる。
「随分と気持ちがよさそうでしたね。いい夢が見られましたか?」
 今そこがどのような状況になっているのか、よくわからないという状態。そんな状態が一瞬あった後に、少女は急に恥ずかしくなった。クラスメートのくすくすと言う笑い声が聞こえたからだ。


 なんだか、よくわからない物語だったけれど、何かすっきりしたような感覚がしている。今日の帰り道では、いちご大福を買っていこう。そんな風に思う、春の午後の少女だった。