文芸春秋文學界の7月号「文芸部ルネッサンス」で、
高崎女子高等学校文芸部の、文芸創作の相互添削システムが紹介されていた。


この相互添削システムというものは、
(文芸部誌に)『掲載される作品を、部員全員で回し読みをし、
気になったところに鉛筆で添削をする。
この添削を受け入れるかどうかは、各人の判断に委ねられている』
という仕組みで運用されているのだそうだ。


僕自身、大学時代に文芸部(正確には文学研究会だが)に属し、
何度も合評会に参加し、自分も含めた部員の作品について意見交換を行った。


この相互添削システムでも、合評会でも、
自分以外の人から、自分の作品について意見を入手することできる点は共通している。


合評会は、意見交換の場所として、
一人で創作をしているだけでは得られない意見を得られる点が良いと思う。
相互添削システムは、原稿の相互チェックの方法として、
作品を読んでいる段階でチェックするので、きめ細かい意見を得られる点が良いと思う。


合評会では読者の視点から、
相互添削システムでは編集者の視点から、
意見を得られると考えるとわかりやすい。


ただし、文芸部という創作をする者同士のコミュニティの中で、
出版社にいる編集者のような立場になって、原稿をチェックするというのは、
ちょっと違和感を感じる。


一般的に文芸部というコミュニティには、
出版社のように、雑誌や出版社の理念や色という明確な価値基準というものは無い。


# 例えば、純文学を思考する雑誌では、
# エンターテイメント色の強い作品は、好ましくないとして添削されて、
# 修正を求められることになるだろう。
# 他の例では、子供向けの雑誌では、
# 「てにをは」の間違い(意図的な誤用も含めて)は許されないかもしれない。


僕自身の考え方として、文芸部のようなコミュニティでは、
創作に対する考え方の違いは許容されることが理想的だと思う。


僕自身、大学時代に文芸部で部員の作品を読み、
「元ネタがわからないと意味がわからないような作品を、
 部外一般に配布する機関誌に掲載するのは好ましくないのではないか。
 作者自らが、読者を限定するような行為はいかがなものか。」
と、言うように意見したことがある。


でも、これはあくまでも私の意見でしかない。
私の意見を聞いて今後の創作をどのように行うのかは、自由に判断するのが良い。


添削をする場合でも、まったく同じことで、
添削する立場の人は大いに、作品に対する指摘をすればいい
細かいところで、句読点の間違い、日本語の間違い、文章の意味がわかりにくいなど。
大きなところで、展開が退屈だ、描写不足で味気ない、登場人物が無駄に多いなど。


これらの指摘は、作者が意図的にやっていることかもしれない。
句読点を増やして、切れ切れな雰囲気を出す。
日本語を間違えることで、読者に違和感を与える。
文章が意味をわかりにくして、曖昧さを残す効果を出す。
退屈な展開や、味気ない展開は、物語に必要な効果を出す。
登場人物の多さは、その世界観を表現するために一役買っているかもしれない。


『この添削を受け入れるかどうかは、各人の判断に委ねられている』
この点が、この添削システムの最も重要な点ではないかと思う。