例えば弁護士という肩書のある人が、専門外の法律の分野の相談に応じる。
あり得る話。


そんなとき、その弁護士はどうするのだろうか?
 1. 相談に応じている期間に、その分野の法律を必死に勉強する。
 2. 似たような法律を持ち出して、適当に対応してごまかす。
といったところだろうか。


どちらの対応をするにしても、弁護士という肩書きなしにはできないこと。
もし、弁護士ではないただの「法律に詳しい人」が上のような対応をしたらどうだろうか?
「1.」の対応をしたとしても、相談に来た人は不信感を持ってすぐに相談するのをやめるだろう。
# ひょっとすると、「2.」の対応をした方がマシかもしれない。


最近、「肩書は時間的猶予の確保に有効である」と思うことがある。


実力がなくても肩書があれば、相手は信じて待ってくれる。
そして待ってくれている間に、本当に実力をつけて対応する事ができる。


実力も肩書もなければ、相手は信じてくれない。待ってもくれない。
そして、その後に実力をつけても、相手は取り合ってくれない。
そうなってしまうと、努力をする気なんて失ってしまうだろう。


自分を向上させるためには、肩書を持つということは有効なことではないだろうか?
複雑で進歩の早い世の中、どんな専門家でも日々新しい事に直面する。
そして日々、努力をしなければならない。時間は待ってくれない。
そこに少しの猶予と努力するチャンスを与えてくれる「肩書」。


僕は、これが肩書の使い方なのではないかなと思う。


最近読んだ「危機感を持って勉強をしよう」というテーマのコラムで、
『海外旅行に行く前に、彼女に英語が話せると言ってしまえば、英語の勉強をせざるを得なくなる。
そういう動機付けも、勉強のモチベーションを持つためには有効である。』
という意味のことが書かれていた。
これは「はったりと努力」だけれど、「海外旅行へ行くまで」の期間という猶予が努力するチャンス。


このコラムを読んで、ふと「肩書」のことを思った。


僕にも何か良い「肩書」があれば。
そうすれば、きっといろんなチャンスに巡り会える。
僕にとって、それはきっと厳しい巡り合わせ。
へこたれるかもしれないけれど、それが僕を強くするチャンス。